昭和五十四年十一月二十日 朝の御理解
御理解第六十五節 「日柄方位は見るにおよばぬ。普請作事は、使い勝手のよいのが、よい家相じゃ。よい日柄というは、空に雲のない、ほんぞらぬくい、自分に都合のよい日が、よい日柄じゃ。いかに暦を見て天赦日じゃと言うても、雨風が強うては、今日は不祥のお天気じゃと言うではないか。日のお照らしなさる日に良い悪いはないと思え。」
この六十五節を御信者の一人一人に分かってもらえれるお取次が出来たら最高だと思いますね。ただ取り次ぐというだけではなくて、ほんにそうだと分かってもらうという事です。なかなか何十回頂いても、ね。なかなかそれを心からそうだ、と頂き得る人が少ないです。どこかに引っ掛かっておる。そこでまあ実証していく、ということ。
日柄とか方位とか、ね、といったような事が、如何に迷信であるか、という事を、また家を建てさせてもらうでも使い勝手のよいのが良い家相じゃと分かる、ということ。私共の日常生活の上に、そうした迷信的観念がどの位、私共の有難い日々を狭めたり、又は窮屈な、いわゆる不自由な生き方にしておる事か、ね、だけではありません。
そういう心にかかる、という事がおかげがそこにかかる。いうなら心に引っ掛かる、と。だからおかげがそこに引っ掛かってくる、ね。日のお照らしなさる日によい日わるい日はないと思えというような心の広い心で、日々が過ごせれるようになる、ということ、ね。そういう心の状態には、ね。いうなら安らいだ心で物を思い事柄を感じるのですから、ね。
その事柄とても物でも、いわばおかげと見れるわけなんです。ね。人間関係でも、例えば今日のような、この御理解を、ね。頂けたらどんなにかスムーズになる事だろうか、とこう思います。だから理屈の上ではないです。自分の心に頂く、いわゆる信心です。いうならば世の中には、ね、ま、ここ一日二日頂いておるように天中殺といったようなものはないんだと観念する事です。これはだから金光様の御信心を頂いて、ここのところが分かった人でなからなければ天中殺はやっぱあるわけです。ね。
けども今日のような御理解のところが広々とした、ま、何と言うでしょうか、豊かな、というか、ね。もう兎に角ほんぞら温い、ね。日のお照らしなさる日によい日わるい日はないと思うといったようなあり方の中には、そういう観念的な、いわば天中殺でいうならば易学に現れてくるとか、ね。姓名判断に現れてくるとか、色々なそういうものは、例えばこの日柄方位とかいったようなものでも、暦にちゃんと乗ってる位ですから、ね。
ひとつの学問の上から言えば、やっぱりよい日わるい日はあるわけなんです。けども、そういう事では金光様の御信心にはなりません。いやもう天地に対する御粗末になる御無礼になる、ね。御理解第三節にありますように、ね。も、これがめぐりを作る元とさえ教えておられます、ね。自分の物でもないものを、自分のものと思うたり、日柄がよいのわるいのと言うて、天地にいうならば御無礼な事を言うたり思うたりしておる、その事が前々のめぐりで難を受けておる、す。
ですからここのところの、いうなら何と言うでしょうかね。大らかな、と言うんでしょうかね。心という、いわゆる安らいだ心。それに信心の喜びというものが、信心させて頂いておると分かってまいります。そこには何にもない。あるものは一切がおかげ。どういう難儀な問題であっても、それこそ開けて見れば愛であって、ね。神様があちらの方角へ行ったからとっちめてやろう。
例えば家を建てるのに、こういう事をしたから難儀を与えようというようなものではないのだけれども、人間が自分で作り上げて、いうなら自分で難儀を作っておるような自業自得というか、ね。自分で自分の身体を窮屈に括ってしまうような生き方をです、教祖の神様はこの六十五節では教えておられるのだと思うのです。
親先生はあゝ言いなさるけれども、やっぱり今迄世間で言うて来た事は、やっぱ言わな気持が悪か、せなければ気持ちが悪い。やっぱり黄道吉日といったような事になるのです。それは日にちとか、そういう事だけではなくてです。私共の心の上に広がってくるおかげの世界を、いよいよ狭めてしまうのです、ね。
ためには、ね。私共がどういう信心をさして頂いたら、こういうみ教えがスンナリと入ってくるか、と。勿論実験実証さしてもらう。そこに高芝さんがお参りになっとられますが、高芝さんところのお母さんが亡くなられる時には、丁度あれは友引か何かと言うてお葬式の告別式の日を変えなければいけない、というような日にちであった。
それで親戚に、その電報で葬式の日を知らせておられたけれども、そのお届けに見えましたから、私はそれを取り消させました。ね。金光様の信心しとって、そんな事はない。だからちゃんと決まった日に、と言うて通知をしておられた通りの事になりました。おかげで、ま、無事済みましたが、もう明くる日にしとったら、明くる日は大雨でした。
もうそれこそ沢山の会葬者でしたから、外に沢山並んで告別式に参加しておられましたが、ね。世間でいうような通りの事をしとったら、本当に困った難儀な事であったけれども、ね。お道の信心をもってすると、そういう事もないような、いうならこれは実験であり実証である。
成程御神意のまにまに同時にそんな、例えば暦の上ではそういうふうに現れておっても、例えば友引がいけない、といったような事があってもです、ね。そういう事が、いうなら、いうなら迷信だから、と、それを実験実証されたわけです、ね。だからその実験をし実証をしたからと言うて、その心に掛からんという事ではないのです。一事二事ではないのですから。
だから何と言うても、私共が信心によってです。神様を信ずる、という事がです。心の上に神様を頂いて、心に和賀心を頂いて、喜びを頂いての実験実証でなからなければ、本当なものになりません、ね。教祖様が教えて下さるように、ね。よい日、よいとかわるいとかないという事は、事柄の上に於てもやはりそうです。
いうならば、いつでもが天赦日だ、という頂き方。なら事柄の上に於ても問題の上に於ても、ね。いわば、それもおかげと頂けるような信心を、まずは頂かなければ、日柄方位といったような事だけ分かったというのであっては、本当のおかげは伴いません、ね。自分の心に一切がおかげと分からして頂く信心が頂けて、ここのところを頂かしてもろうたら、それこそすっきりとした大らかな日々が、毎日が天赦日というような毎日が許されての、今日、生かされての私といったような信心が、ね。開けてくるようになる。
いわば深い意味に於ての金光教は、そういう生き方が出来る事を、教祖の神様は天地金乃神様よりお知らせを頂かれて教えて下さってある、という事でございます。ね。何か知らんけど、教えがギラギラとしたようなものでなくてです。も、大らかに、私共の日々の生活の中に入ってくる。そこに全てが大らかな豊かな心で過ごす事が出来る。はじめて豊かな物にも金にも不自由せんですむ、人間関係も、大らかな安らかな関係が生まれてくる。金光教の信心が身に付くという事は、そういう事じゃないでしょうかね。
どうぞ。